伊集院光が松本人志を評して指摘したとされる(出典不明)、「これを理解できるのは自分だけだ」とみんなに思わせることができるものが盛り上がる、というのはこういうことなのだな…と思わされる記事ですが、それはさておき。
浅野智彦『「若者」とは誰か』(河出書房新社、2013)や後藤和智『「あいつらは自分たちとは違う」という病』(日本図書センター、2013)など、世にはびこる「世代論」の危うさを指摘する研究に学んできた者からすると、「若者」(ここではだいたい10〜20代を想定している模様)と「年長者」(タイトルにもあるとおり30代以上)という世代にもっぱら注目してヒット曲を論評するというのは、何というかこう、「またか」という印象が否めません。吉川徹・狭間諒多朗編『分断社会と若者の今』(大阪大学出版会、2019)などで強調されているように、同じ世代のなかにも社会階層による意識や行動の違いがある以上、ある世代を同質的な集まりとして認識するのは端的に間違いです。社会現象を理解するツールとしては使いものにならない「世代論」に目新しいトピックを投入して延命させ、自分の半径5mを見て納得していると、この評論にたいして「深いっすね〜」とか言いながら内心「うっせぇわ(長ぇ、理屈くせぇ)」と思う「若者」の存在に想像が及ばなくなります。理論とデータの蓄積があってこそ、想像力も広がるものです。
問題はそれだけではありません。私たちの認識枠組みは言説によって影響を受けます。「世代間対立がある」という言説に曝されることで、「世代間対立がある」という色眼鏡をかけて世の中を見るようになってしまう、ということがあるわけです。こういう流行の尻馬に乗って無用の世代間対立を煽るのは、まだまだこの社会で生きていかなければならない一市民としてけっこうマジで勘弁していただきたい。もっとも、このように文句を垂れたところで、「世代論」が売れる商品であるかぎりは、それを無責任に援用した言説が垂れ流されることは止められません。「世代論」の危うさを内輪で語るだけでなく、「世代論」がいかに「物足りない」のかを社会で共有していく取り組みが、社会科学者には必要だと感じます。
ついでに、「世代論を語りたがるのはどんな人か」というのも機会があれば調べてみたいな、と思った次第です。