Kohei Yamamoto


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【勝手に翻訳】ビリヤニをめぐる争い

パキスタン人の私の家族にとっても、南アジアで暮らす多くの人びとにとっても、「食事にビリヤニを出してはいけない場面」などというのは考えも及ばない。それくらい、米と肉や野菜とスパイスを混ぜてじっくりと炊き込んだこの料理は、人びとが集まるところでは定番の料理だ(人数に合わせて大量に作るのも簡単)。フォーマルな場でもインフォーマルな場でも、楽しい集まりでも悲しい集まりでも、とにかくどんな場面でもビリヤニはその場を盛り上げてくれる。

子どものころは、いとこたちと一緒になって、結婚式のビュッフェでビリヤニをお皿に大盛りにして、ボリウッド音楽が鳴り響くなか、片隅でそれを食べたり、いたずらをしたりしたものだ。昨年、祖父が亡くなったときには、叔母やいとこたちが大量のビリヤニを持って訪ねてきてくれた。食卓を囲んだ私たちの手には、ビリヤニを山盛りにしたお皿があの頃よりも軽く感じられた。

ビリヤニは、インド亜大陸で何百年もの間、家族の生活に欠かせない料理として親しまれてきた。インドがムガル帝国の一部で、イスラム王朝によって支配されていた17世紀に考案された、ということになっているが、似たようなものはおそらくそれ以前からあったのだろう。言い伝えによれば、皇帝シャー・ジャハーンの妻であったムムターズ・マハルが、飢えた兵士たちを見て、シンプルで栄養価の高い食事を作るよう料理人に命じたのが始まりだという。料理人たちはそれに応えるために、ペルシャの米料理であるプラーオのレシピを取り入れたようだ。ペルシャ料理がルーツだとすると、ビリヤニという言葉は、ペルシャ語で「調理前に揚げたもの」を意味する”birian”から来ているのかもしれない。

このようなビリヤニの起源にまつわるお話は、本来であれは面白い会話のネタでしかないはずだ。ところが近年、これがインドの政治の泥沼に引きずり込まれているのだ。ビリヤニは何世紀にもわたって、宗教を問わずあらゆるインド人に親しまれてきた。インドのフードデリバリーアプリSwiggyによると、ビリヤニはサービス開始以来5年連続で人気第一位の料理で、1秒あたり1皿以上の注文があるという。しかし最近になって、一部のヒンドゥー・ナショナリストが、「ビリヤニ・イーター」なる言葉でインドにおける少数派のイスラム教徒を罵倒するようになっている。食べ物が政治的な武器として動員されているのだ。

このイスラム教徒にたいする罵倒語が生まれたのは、2008年にムンバイで発生したイスラム教徒によるテロ事件の際、唯一生き残った犯人のモハメド・アジマル・カサブが、刑務所の食事を拒否してマトンのビリヤニを要求した、という噂がきっかけだ。後にこの噂はフェイクだったことが判明するのだが、これによって、イスラム教徒のテロリストにたいする当局の扱いがあまりにも甘いのではないか、という国民的議論が巻き起こった。

そしてそれからというもの、「ビリヤニ・イーター」という単語は、ヒンドゥー・ナショナリストの政府をよく思わない人を中傷するために持ち出される万能のレッテルになった。たとえば、インドの与党であるバラティヤ・ジャナタ党(BJP)が、イスラム教徒以外の不法移民に恩赦を与えるという問題含みの法案を2019年に可決したとき、それに反対するデモに参加した人びとのことを、BJPの政治家たちは「ビリヤニ・イーター」と呼んだ。あるいは、今年の初めごろ、自分たちの生活を脅かすかもしれない農業改革に不満を持った農民たちがデモを起こしたときも、BJPの政治家たちは、彼らはイスラム過激派からビリヤニで買収された不正な扇動者なのだ、という主張を展開した。

なぜヒンドゥー・ナショナリストたちは、たかだかおいしい米料理に脅威を感じるのだろうか。それはおそらく、ビリヤニがインドの多文化主義をもっともよく象徴するものだからだろう。各地を制圧した過去の君主や、津々浦々を放浪した巡礼者たちによって、ビリヤニはインド亜大陸の隅々まで行きわたり、それぞれの地域のローカルな好みに合わせて進化していった。それが可能だったのは、ビリヤニがきわめて汎用的な料理だからだ。起源は王室の厨房だったかもしれないが、使われている材料は誰にでも手に入るベーシックなものだし、炭水化物もタンパク質もカロリーも豊富なので、食べ応えがあると同時に栄養価も高い。

一般的なビリヤニは、長粒種の米と、マリネした柔らかい肉(マトン、ヤギ肉、鶏肉が多い)を重ね、ターメリック、カルダモン、ナツメグ、クローブなどのスパイスを使ってじっくりと炊き込んで作る。ヒンドゥー・ナショナリストたちは、ビリヤニを彼らが支持するベジタリアニズムへの侮辱だと言っているが、肉を使わないビリヤニのレシピも存在する。

そうしたさまざまなビリヤニのなかでももっとも有名なのは、ハイデラバディのビリヤニだ。フライドオニオンとミントを添えた、強烈にスパイシーな一品である。一方、コルカタのビリヤニは、ヨーグルトでマリネした肉とジャガイモ、ときにはゆで卵も使ったマイルドな味わい。海岸地方のタラッセリーのビリヤニは、肉と一般的なバスマティ米の代わりに、シーフードと地元の短粒種の米を使うことが多い。

ビリヤニの魅力は、こうした適応性の高さにある。亜大陸の各家庭にはそれぞれ独自のビリヤニがあるし、誰のビリヤニが一番おいしいか議論を戦わせるのも一興だ(できれば、湯気の立つ黄色い米を囲んで)。それがビリヤニのあるべき姿だ。私にとって、そして多くの南アジアの人びとにとっても、ビリヤニは「一体感」を意味する。今こそ、「ビリヤニ・イーター」という言葉を私たちの手に取り戻す時なのではないだろうか。

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